3.阪神そして妻との死闘の日々(1992)


 平成4年のセ・リーグはまれにみる大混戦であった。優勝チームが69勝61敗、最下位でも60勝70敗。セ・リーグ全体としての残り試合が2試合のみとなってもなお、優勝チームが決まらなかった。その2試合は、優勝の可能性が残る2チーム、燕軍団と猛虎軍団の甲子園球場での直接対決であり、まさしく天王山、天下分け目の決戦となった。我らが燕軍団は1勝すれば優勝、連敗してもプレーオフの有利な条件。しかし戦場は敵地。10月10日、体育の日、甲子園球場は7年ぶりの優勝を信じる猛虎軍の大応援団が甲子園球場に集結し、入り切れぬ猛虎党が球場を幾重にも取り囲む殺気だった雰囲気の中、14年ぶりの優勝を目指す我らが燕軍団と猛虎軍の戦いが始まろうとしていた。丁度そのころ、もう一つの戦いが東京の片隅でも繰り広げられようとしていた。
 昭和53年の初優勝のあと、燕軍団は飛ぶことを忘れてしまっていた。翌年の最下位のあと、一旦は武上監督の下、2位になったものの、あとは4位3回、5位3回、最下位4回と10年間Bクラスが続き、ようやく野村監督の下、前年にAクラス3位になったのは、燕軍団としての42年の長い歴史の中で6度目のことであった。初優勝からも14年が過ぎ、本当に久しぶりに訪れた優勝の好機であった。三十路を過ぎて大学教官となり家庭を持った当方にも、あの初優勝の時の感覚が戻ってきた。今日決まるに違いない。その日は朝から落ち着かなかった。しかし、そう思わない者も身近にいた。そう。妻は大阪出身の生粋の猛虎党であったのだ。
 語り草の昭和60年、バース、掛布、岡田を中心とする重量打線を引っさげてセ・リーグを制した猛虎軍団は、翌年こそ3位であったが、その後燕軍団と同様、5位1回、最下位4回と屈辱の日々をおくっていた。誇り高い猛虎党にとっても久しぶりに訪れた優勝の好機であった。昭和62年の結婚以来、野球は調子のよい方を応援しあってエールを交換するものでこそあれ、よもや互いのチームが優勝を争うことになるとは夢にも思っていなかった。平成4年のシーズン、我が家では生傷が絶えることはなかった。
 話を試合に戻そう。先発はこの年奇跡の復活を遂げた荒木に対し、猛虎軍はエースの湯舟。テレビの前には無言の妻と私の二人が静かに腰を下ろしている。互いに目は合わさない。初回いきなり燕軍団に古田の適時打で得点が入る。2回にもハウエルのホームラン。妻の顔が紅潮している。しかし、2回の裏にピンチが訪れた。新庄、久慈、木戸の3安打で、1点が入り、早くも猛虎軍は湯舟をあきらめ、代打立花を出してきた。家中に妻の声が響く。なんとか3振に押さえ込んだ。まだまだ序盤戦。今日はどうやら打撃戦になりそうだ。4回に再びハウエルのホームラン、6回にまたまたハウエルのタイムリー。猛虎軍も小刻みに走者を出すが、得点につながらない。徐々に妻の応援に力がなくなり、ぼやきが増えてくる。6回に加藤、伊東とつないで、我が燕軍団は必勝の態勢。8回にはだめ押しの広沢のホームランも出て、5−1で猛虎軍の最後の攻撃を迎えた。
 このころになると球場は猛虎党のあきらめのためとも祈りともつかない叫声に包まれてくる。我が家にも、涙ぐみつつも振り絞るように応援を続ける妻の姿があった。そこにパチョレックのホームランが出る。まだいけるかもしれない。球場も我が家もいっぺんに雰囲気が変わった。八木の打球が右翼に飛ぶ。しかし届かない。新庄も強振するが、キャッチャーフライに終わった。最後の打者、久慈の打球が2塁に転がった瞬間、妻はうつむいて、こらえ切れぬように涙し、「どうして」とつぶやいた。


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