4.日本一には神宮球場こそ似つかわしい(1993)
平成5年の燕軍団は、開幕3連敗と出だしこそつまずいたものの、5月攻勢で首位にたち、途中、8月末から9月にかけて中日の猛追にあって、一時首位を明け渡す場面はあったが、9月中旬の8連勝、9月末から10月にかけての11連勝でリーグ優勝に王手をかけることとなった。思い返せば、昭和54年、初優勝の翌年に最下位になり、その後の長期低迷が始まったのであるが、そのような過去とは異なり、球団初、そしてセ・リーグの球団としては巨人、広島につぐ3チーム目の連覇を達成したのは10月15日、我らが神宮球場での広島戦、129試合目であった。折しもワールドカップサッカーのアジア地区最終予選がカタールのドーハで開幕し、報知(巨人派)、日刊スポ、スポニチ(いずれも巨人シンパか?)の3紙では第一面がサッカーの開幕戦、日本−サウジアラビア戦であった。たかが引き分けた試合でである。常識的な判断を下した、サンスポ(我らが御用新聞)、デイリー(虎派)、東京中日スポ(龍派)には敬意を表したい。今に始まったことではないが、主役になれないときの巨人派は至極冷たいが、このような扱いも悔しさの一表現とみれば、微笑ましくもある。
パ・リーグの覇者は前年と同様西武。前年苦杯をなめた相手に対する雪辱戦は、燕軍団3勝1敗の王手から2連敗し、2年続いて3勝3敗の五分で11月1日の西武球場での最終戦を迎えることとなった。連敗で雰囲気は沈みがち。西武は3年連続日本一。西武有利というのが、大方の予想であった。
先発は川崎、西武は渡辺久。いきなり初回に広沢の3ランが飛び出し、幸先のよいスタートを切ったが、その後、5回までノーヒットに押さえ込まれることになる。その裏、早速西武の反撃が始まり、清原の2ランで1点差に詰め寄られ、さらに2回、3回とヒットが続き、燕軍団は防戦一方となる。それでも川崎が毎回3振奪取の力投を続ける一方、西武は渡辺久から工藤、石井丈とエース級をつなぎ、両軍7回まで0行進。前年終盤に1点差を追いつかれ延長で逆転された苦い思い出が脳裏をよぎる。居ても立ってもいられない。あと2回、何とかしのいでくれ。そんな願いが天に通じたのだろうか。8回に変わった塩崎から古田、ハウエルの長打で貴重な追加点が入った。
4−2で迎えた8回裏の西武の攻撃。最大のピンチが訪れた。先頭の垣内に四球を与えた川崎が降板し、変わった高津が二死をとったものの、辻に左前打を浴び、ホームランが出れば逆転という場面で代打吉武を打席に迎えた。あとは石毛、清原、秋山と続く打順である。一つ間違えば大量点。その上、球場は敵地。西武の応援団の大合唱の中、高津が投げた一球を強打した打球は大空に高く舞い上がった。歓声と叫声。レフトスタンド目がけてぐんぐんと白球が伸びていく。ホームランか?しかし、わずかに失速した打球が橋上のグローブに吸い込まれた瞬間、燕軍団に勝利の女神が微笑んだ。9回の攻撃を3塁ゴロと2者連続3振にしとめた高津がマウンドに仁王立ち。王者西武を葬り、我らが智将ノムさんが宙に舞った。
2回目の日本一。しかし、今回もまたその舞台は神宮球場ではない。ホームグラウンドでの日本一は今回もお預けとなった。
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