「揺籃の時空」

 昭和57年春、博士課程を中退し、助手として赴任した東京大学工学部工業分析化学第一研究室には静かな時が流れていた。研究室を主事する合志陽一教授のほか、後に田中誠之教授の研究室を教授として引き継ぐこととなる澤田嗣郎助教授、高エネルギー物理学研究所の教授となる飯田厚夫助手をスタッフとし、博士課程に清水邦昭(日立メディコ)、修士課程に貝原巳樹夫(一関高専)、福島 整(物材機構)、吉永 敦(昭和電工)、河合 潤(京大教授)、学部生には桜井健次(物材機構)、福本夏生(産総研)、水野 薫(新日鐵)、奥原俊彦(KORG)らが在籍していたが、各自机に座ったまま黙々と文献を読みふける姿がそこにはあった。研究室内には合志教授が開発した二結晶型蛍光X線分光装置と飯田助手が主に使う装置開発用のX線発生装置の部屋と、澤田助教授が使うレーザーや分光器の部屋があった。
 16年間を過ごすこととなった工業分析化学第一研究室は、工学部の共通研究室として宗宮尚行教授により創設され、その後、平野四蔵、鎌田 仁、合志、の各教授を経て、現在の北森武彦教授へと引き継がれた歴史ある研究室である。赴任した当時には、合志研、田中研のほか、仁木榮次教授の後を継いだ氏平祐輔教授の研究室をあわせて工業分析化学の研究室が3つあり、合同のOB組織「工分会」を運営していた。田中研の土屋正彦助教授(元横浜国大教授)、樋口精一郎講師(元長崎大教授)、寺前紀夫助手(東北大教授)、などが参加する3研究室合同の研究会もあった。一方、研究面では分光法を中心とする機器分析法の進歩が一段落し、「分析化学」の勢いが失われつつあることを感じていた時期でもあった。3研究室の教官に生産技術研究所の二瓶好正教授と尾張正則助手(現在の東大環境安全研究センター教授)を加えた面々で、「分析化学の将来」をテーマに真剣に議論したことも度々で、今振り返ってみても、そのような場に身を置いたことは貴重な経験であった。
 在籍中、毎年4〜5名の学部生が加わり、そのほとんどが修士課程に進学。約70名が研究室を巣立っていった。初期には、前述の福島、吉永、河合、桜井のほか、早川慎二郎(広島大准教授)、奥村昭彦(日立)が博士となった。また、4年生時のみ在籍した桂川眞幸(電通大准教授)、修士のみの馬見塚拓(京大教授)や澤田研究室の設立に伴って移籍した笠井正信(東ソー)、原田 明(九大教授)も時期を重ねて在籍。振り返ればこの時期が合志研の黄金期と言えるだろう。その後、吉久 寛(SEG)、木村昌弘(JX)と散発的にではあるが博士を輩出。最晩年には植田浩明(京大准教授)が在籍し、その後、北澤宏一教授の下で博士となった。
 現在の職場である東京理科大学にあった古谷圭一教授の研究室から毎年数名の学生を研修生として受け入れていた。横田哲夫(中学教員)、高東智佳子(荏原総研)、渡辺友治(東芝)ほか、東大生と比較しても遜色ない実力を持った学生たちに接する機会を得た。その後、平成10年に理科大に移り、200人を超える学生を卒業させることになるとは、夢にも思わなかった。
 理科大の宮村研では7年ほど前から博士に進学する学生が出始め、途切れることなく続いている。ようやく昨年、山口大の助教に友野和哲博士を送り出すことができたが、他にも曽根田裕士(東洋インキ)、富山悦子(理研)が博士となり、さらに大 紘太郎、田巻義則、浦野翔輝が在籍している。今の研究室には、他と共通する博士を産み出す時の流れがある。遠く振り返れば、私が4年間の学生生活を過ごした研究室で同じ時と場所を共有した先輩・後輩からは、私を含めて8人もの大学教授が輩出された。まだ途中ではあるが、学生時代、合志研、そして現在と、人材を輩出する時空に恵まれた。大学人冥利に尽きる。

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