全線完乗

ホームページに雑文を載せていたために、浩洋編集部から執筆依頼を受けてしまったようだ。旅関連で一筆とのこと、旅のページを作ったものの、まだ何も書いていないので、編集部が気を遣ってくれたのかもしれない。この稿を旅のページの序文とするつもりで執筆をお引き受けした。旅といっても鉄道での旅が私の趣味である。ここでは数ある旅の思い出の中から、全線完乗を選んでみた。

この国はいい。山河があり、海や島がある。四季があり、歴史もある。外国のような雄大な景色には欠けるものの、多様な風景がちりばめられた宝石箱のような国である。この国にある鉄道もいい。路線網は減ったとはいえ、とても充実している。乗れば車窓の風景が勝手に変わってくれるし、寝ていても動き続ける。そして、気がつけば異郷の地。そんな鉄道の旅のよさに気づいたのは大学生の頃である。ユースホステル全盛の時代であり、休みごとに旅に明け暮れた。宮脇俊三の名著「時刻表2万キロ」を読んだのもこの頃だ。この書の中で著者は国鉄(現在のJR全社)全線完乗までの道のりを紀行文にまとめている。旅を続けるうちに、いつしか自分も全線完乗をしてみたいと思うようになった。
鉄道マニアの間では、全路線を端から端まで乗車することを全線完乗という。当然、全線完乗には終着駅がある。その終着駅は最果ての地にあるように思うかもしれない。しかし、「時刻表2万キロ」では北関東にある足尾線の終点である間藤駅が全線完乗の終着駅であった。最果ての地ではなかった終着駅を振り返り、著者は多少残念に思いつつ、その一方、乗りにくい路線を優先して乗車した結果であり、必然であるとも書いている。私の終着駅もまた、そんな駅のひとつとなった。
平成10年の夏の終わりにJR九州の宮崎空港線とJR西日本のJR東西線を乗車して、いよいよ私のJR全線完乗は残すところ一路線となった。すぐにでも乗りに行きたいところだが、後述する理由のため、完乗には冬を待たねばならなかった。完乗まで残りひとつになったことをやはり鉄道マニアである東京工芸大学の甲斐先生にお話したところ、ぜひ一緒に行って祝いたいとのこと。そこで、仕事もほぼ終了した12月21日の夕刻に甲斐先生と上野駅で待ち合わせて車上の人となった。その晩はホテルのカラオケボックスで前祝いと称して大いに歌い騒いだ。
翌日の朝はまさしく快晴。ホテルでの朝食後、いよいよ終着駅に向かうため、越後湯沢の駅まで歩いていった。鉄道に詳しい人ならばわかるだろう。私のJR全線完乗の終着駅は、ガーラ湯沢駅であった。ガーラ湯沢駅はスキー場のすぐ下にあり、上越新幹線が直接乗り入れるスキーヤーのための駅である。越後湯沢の駅から一駅しか離れておらず、すぐそばに見えるし、歩いても大した距離ではない。しかし、JR完乗のためには、この駅までの一駅区間をとにかく乗らねばならないのである。スキーができない私がスキーシーズンの到来を心待ちにしたのは、この駅が、スキーシーズンである冬季にしか営業しないからであった。
最後の旅はまことにあっけないものであった。越後湯沢の駅を出た新幹線車両は数分後にはもう目的地に着いてしまった。写真はそのときに甲斐先生がとったガーラ湯沢駅ではしゃぐ筆者であり、乗ってきた車両もすぐ脇に見える。また切符は、駅を出るとき駅員にお願いして、無効印を押していただいたものである。普段着で万歳をし、記念撮影をしている我々。当日のガーラ湯沢駅はスキー板を抱え、スキーウエアに身を固めたスキーヤーたちばかりであったが、彼らの目に我々の姿はどのように映ったのだろう。何はともあれ、20年に及んだ私の旅は終わりを告げた。
 全線完乗を目的としたこともあって、数多くの車窓風景を目にした。夜明け直前の立山連峰(大糸線)、吹雪の中のリンゴ畑と岩木山(五能線)、夕焼けの日本海(山陰本線)など、お奨めしたい風景はホームページで紹介することにしよう。後輩である学生たちにもこの国のすばらしさを伝えていきたいと思っている。

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